昨日はお休みだったので、自然公園でのんびりと過ごしました。公園の中には大きな池があり、鯉や鴨、亀などが棲んでいます。池のほとりに腰をかけて、彼らの姿を見ていると、すぐに時間のない世界に入っていくことが出来ます。それは、彼らが今をありのままに生きているから・・・なのかも知れません。

彼らの世界には、「何のために」という言葉はありません。彼らは行動に代価や意味を求めたりはしません。ただ淡々と生を楽しんでいます。

子供の頃は、私たちも全く同じ世界に生きていました。私はよく、砂場で小山を作っては壊すという、全く意味のない作業を、何時間も飽きずに繰り返したものです。大人は、当時の私が何故そんなことをしているのか、全く分からなかったと思います。
何故なら、大人の世界は結果という代価を求めて行動する世界だからです。

しかし、子供の世界は全く違います。子供は、行動そのものを楽しんでいます。今この時を生きているので、そもそも結果なんて遠い未来のことなど、全く眼中にないのです。常に今に生き、今を生き生きと楽しんでいました。

大人になった私達は、結果をばかりを求めすぎて、大切な今を犠牲にしてしまっているのかも知れません。昨日、公園の池を悠々と泳いでいた鴨の瞳は、まるで永遠を見つめているかのような、純粋な輝きを放っていました。「今を楽しみなさい。」ふと、その瞳がそう語りかけているようにも感じました。自然は最高の教師なのかも知れないですね。

不幸があるから・・・人はそこから解放された時に幸福を感じ、
幸福があるから・・・人はそれを失った時に不幸を感じます。

つまり不幸と幸福はどちらかが独立して存在することは出来ない補完関係にある訳ですから、その一面だけをとらえて嫌悪したり執着するのは、もしかすると矛盾した考え方なのかも知れません。

この事が腹に落ちて、全ての現象を淡々と受け入れることが出来た人だけが、この二元性を脱却して、全てに神の愛を観じ、ゆるぎない幸福を手に入れることが出来るのかも知れません。

池を眺めながらそんな事を想っていると・・・ふと・・・子供の頃、夏の炎天下の中何時間もしゃがみこんで、アリの巣を眺めていた事を思い出していました。。。そこにあるのは単なる好奇心。。。別に意味などありません。でもそれだけで本当に楽しくて幸せなんですよね。

その後大人になるに連れて、意味のない事、当てのない事をやる事に抵抗が生まれてきました。「時間の無駄なんじゃないか?」「こんな事やってなんの為になるんだ?」こうして行為に意味を探していた時期にあまり幸せを感じる事はありませんでした。今という宝物を未来の為の踏み石にしていたからです。未来なんて永遠に来る事はないのに・・・。人は常に今この瞬間だけを体験しながら生き続けているだけなのに・・・。

今という一瞬の中に永遠の幸せがあります。それが人間の一番自然な感情なのかも知れません。
そして、誰もがこの感覚は分かるはずです。。。なぜなら子供の頃は誰もが感じていた事だから・・・。昨日は久しぶりに意味を持たない永遠の今を楽しむ・・・そんな素敵な休日が過ごせた日でした。。。