ギバー、テイカー、マッチャーとは

「ギバー」は自分が受け取る以上に他人に与える人のことを指す。 一方、「テイカー」は常に自分の利益を優先する。また、多くの人はギバーでもテイカーでもなく、与えることと受け取ることのバランスを取る「マッチャー」である。

成功者をピラミッド構成でみると、ピラミッドの底辺にいる人達にキバーが多く、ピラミッドの中間には テイカーやマッチャーが多いと言われています。そして何故か、ピラミッドの頂点にいる成功者にもキバーが多いといわれていますが、この違いを心理学では下記の様に言われている様です。

★人に舐められるギバー(ボトム(底辺)のキバー)

★人に舐められないギバー(トップ(頂点)のキバー)

この二つの違いは自分を大切に出来るか?どうか?であると言われている。

●それぞれの職種で最低の成績を出してる人とは?

会社員・経営者・学生などなど…様々な職種の人を対象に、最低の成績を出している人を調査しました。意外なことに、どの職種でも関係なく、ギバー(与える人)が一番成績が悪いという結果が出ています。その理由は、見返り以上の仕事をしていたから。

例えば、

緊急の頼まれごと
都合が悪いこと
他人がすべきこと
について、『YESマン』になってなんでも引き受けてしまっているというのです。

●どの職種でも最高の成績を出している人とは?

そして不思議なことに、最高位もギバーでした。

●自己犠牲型のギバーは成功できない

テイカーに対してギブしていても、自分がどんどん疲弊してしまうだけで、一向に報われない。。。これが、成績が悪いギバーの特徴です。

成功者のキバーになるには他人のことも考える + 自分のことも大切にする事が必要だと言われています。

自己犠牲を伴うギバーと長尾弘先生の生き方について ①

でも・・・奇跡のヒーラーと言われた 故)長尾弘 先生は 己を忘れて他を利する(忘己利他【もうこりた】)を理想としてきて「人々の 僕となりて生き抜かん 我が人生に悔いは残らじ」とまでおっしゃらており、自分を犠牲にして、生涯、他者に尽くしました。

そして、自然界の太陽も己の身を燃焼させて光と熱となる愛と慈悲を生きとし生ける者全てに何の見返りも求めず無償でお与え下さっています。この姿こそが真の神の姿であると言われています。

でも・・。心理学では、自己犠牲型のギバーは成功できない。人に舐められる。。と言われています。この違いが私には良く分かりませんでした。。自己犠牲を伴う生き方をしてきた長尾弘先生は人から舐められなかったのでしょうか?

また、親が子供に与える愛も 見返りを求めない無償の愛だと思います。親が子供に与える愛は時に親自身の自己犠牲を伴う事もありますが、その行為は 心理学で言われている ギバー、テイカー、マッチャーの理論 や 人に舐められるギバー(ボトム(底辺)のキバー)にはならないのでしょうか?

当院の見解

① 心理学(アダム・グラントの理論)が定義する「底辺のギバー(自己犠牲型)」

② 長尾弘先生のようなスピリチュアルな「忘己利他(もうこりた)」

③ 親の無償の愛。

長尾先生の生き方や、健全な親の無償の愛は、心理学でいう「人に舐められる底辺のギバー」には該当しないと思っています。間違いなく「トップのギバー(成功するギバー)」の領域におられました。

なぜ一見同じ「自己犠牲」に見えるのに、結果が全く異なるのか?。その違いは「与える動機」と「境界線(主体性)」にあるのでは無いでしょうか。

1. 心理学の「自己犠牲」と宗教的「忘己利他」の決定的な違い

心理学で「成績が悪く、人に舐められるギバー」とされる人は、実は本当の意味で他者を愛しているから自己犠牲をしているのではありません。彼らの根底にあるのは「恐れ」です。

特徴 底辺のギバー(人に舐められる人) トップのギバー / 忘己利他の実践者
与える動機 嫌われたくない、断るのが怖い(恐れ 相手の幸せを願う、使命感(愛・確信
主導権 他人にある(頼まれたから嫌々やる) 自分にある(自らの強い意志で与える)
テイカーへの対応 搾取されてもNOと言えない 相手のためにならない搾取には毅然とNOと言う
エネルギー源 自分の身を削る(枯渇する・疲弊する) 感謝や高次の目的と繋がっている(枯渇しない)

●長尾弘先生が「舐められなかった」理由

底辺のギバーがテイカーに舐められるのは、「この人はNOと言えない(自分を持っていない)」と見透かされるからです。

一方、長尾先生の「忘己利他」は、他人に振り回される弱さからの行動ではありません。「自分は人々の僕(しもべ)となる」という、圧倒的で強烈な『自己決定』による強さです。

自らの強い意志で魂を燃やしている人に対し、人は「舐める」どころか、畏敬の念を抱きます。太陽が誰の指図も受けず、自らの法則で燃え続けているのと同じで、そこには他者が搾取できるような「隙(弱さ)」が存在しないのです。

2. 親の無償の愛は「底辺のギバー」になるのか?

親が我が子に与える自己犠牲を伴う愛。これも、一歩間違えると「底辺のギバー」になり得ますし、正しく機能すれば「トップのギバー」になります。

ここでのキーワードは、「無償の愛」と「無条件の服従」の違いなのでは無いでしょうか。

●「底辺のギバー」に転落する親(=舐められる親)

子供(この場合はテイカーになり得る存在)の要求に対して、「嫌われたくない」「泣かれるのが面倒くさい」「可哀想だから」と、親自身の境界線を引けずに何でも与え続けるケースです。

これは「過干渉」や「甘やかし」と呼ばれ、結果的に子供は「親は自分の思い通りになる便利な存在だ(=舐める)」と学習し、親自身も疲弊します。まさに心理学が指摘する「成功しないギバー」の典型です。

●「トップのギバー」である親

真の無償の愛を持つ親は、自分の時間や労力を犠牲にしてでも子供を育てますが、「子供の本当の成長のためにならない要求」には毅然としてNOを突きつけます。

時には厳しく叱り、時にはあえて助けずに失敗させる。これは「自分(親)の尊厳」と「子供の未来」の両方を大切にしているからです。このような親は、子供から搾取されたり舐められたりすることはありません。

3. 「自分を大切にする」の本当の意味

心理学で「トップのギバーは自分のことも大切にしている」と言われるのは、エステに行くとか、ご褒美を買うといった表面的なことだけではありません。

「自分の時間、エネルギー、そして『志(信念)』を、テイカーの身勝手な要求によって汚させない(境界線を守る)」ということです。

長尾先生は、ご自身の肉体的な疲労(自己犠牲)はいとわなかったかもしれませんが、「神との調和」や「人への愛」というご自身の最も大切な信念(魂)だけは、絶対に誰にも明け渡さず、大切に守り抜いたはずです。だからこそ、奇跡的な力を発揮し続けたトップギバーであったと言えます。

「自己犠牲」という言葉の裏にあるものが、「他人への恐れ(依存)」なのか、「自立した愛」なのか。この一点を見極めることで、心理学とスピリチュアルの矛盾は綺麗に解けるのでは無いかと私は思っています。

トップギバーでは無い私達はどう生きていけば良いのか?

自分の中の「恐れ」や「不安」から来る他者への奉仕は、自己犠牲を伴い、他者から舐められる底辺のギバーになってしまうと言う事は分かりました。。。また私達は「人から嫌われたくない。」「イイ人と思われたい。」と言う想いを少ながらず持っています。

私は、車を運転していて横から入って来る別の車に道を譲った時、相手は何の御礼も無かった場合、「礼も無いなんて・・・なんだよ。。」と思ってしまう事があります。

レジで態度の悪い店員が居た時に「チッ!!なんだよアイツ。」と思ってしまう事もあります。

人に挨拶して無視されると腹が立つ事もあります。

それは自分が相手に何かを求めているからなのかも知れません。

太陽は自分の身を燃焼させて光と熱となる愛と慈悲を「ありがとう。」の言葉すら求めずに生きとし生ける者全てに無償でお与え下さっています。

『忘己利他』【もうこりた】 (己を忘れて他を利する)

『人様の喜びをもって、我が心の喜びと成す』

『人々の 僕となりて生き抜かん 我が人生に悔いは残らじ』

長尾先生の生き方は、太陽の如く「ありがとう。」の言葉すら求めない。。。ただ、ただ、「させて頂く。。」そんな生き方を、人として肉体を持ちながら貫かれた方でした。

その圧倒的な神への信頼【自然界の法則への信頼と置き換えてもイイです。】と 覚悟が・・・そして、その霊格【魂の輝き・光】が・・・私とは全く別次元の方だったからこその生き方でした。

魂がその領域に達していない私の様な者は、長尾先生の様な生き方はとても出来ませんが・・まずは、自分を大切に出来ず自分の心を苦してしまう事を減らし、そして、その心の余裕で少しでも他者に与えられる人になれる様、生きていく。。。

「自分を愛し、大切にする事。そして、自分を愛するが如く他も愛し、大切にする事。。。」簡単な様で・・・とても難しい事です。。。

私達は肉体を持ち、この世界で日々の様々な出来事を通して そんな大きな「愛」を学ぶ為に、この世に生まれて来ているのかも知れません。